2012年 01月 31日
中上健次著 『千年の愉楽』 河出書房刊
【あらすじ】
熊野の“路地”に生まれ、高貴にして澱んだ血を受け継ぐ“中本一統”の若者たち。
勾いたつような男ぶりに、色濃くにじむ頽廃の影。彼らの人生は一様に短い。自らの手で取り上げた子らを見つめ続ける老産婆オリュウノオバの、慈愛に満ちた巫女のような眼に映る若者たちの生と死が、過去も未来も見わたす永劫の時の中に、一統の血が積み重ねた愉楽と業苦を映し出す。熊野の神話的世界を舞台に圧倒的な豊かさで語られる、路地千年の物語。
映画化を切っ掛けにようやく中上作品に手が出ました。
『歌うクジラ』も独特な文脈で手こずりましたが、今作は本当に難しかったです。
お産婆さんオリュウノオバの視点の文章が、途中で主語がどっちだか分からなくなったり、回顧してるのに現在形だったりで、ずいぶん迷子になりました。
それが時空を曖昧なものにさせて路地の存在自体不確かに見せているようでもあり、逆に自然の一部として生きる日本古来の土着的風俗を表しているようでもありました。
最終章でオリュウノオバの通夜になっても、オバの回想が進んでゆき時間軸を超越するので、漂った感覚のまま読み終わりました。
路地というのは被差別部落とか同和地区ですが、この地に対する愛情が感じられます。
同様に部落を舞台とする岩井志麻子著作のように、おどろおどろしさや湿っぽさがない。
退廃的なムードは共通していますが、どこか渇いていてからりとしている。
宿業を背負った男たちが恐れを知らず無謀に行き急いでいるのも、絶望感がありませんでした。
彼らを親目線で見降ろすオリュウノオバが、彼らの行く末を惜しんでも、それこそ血であると嘆くことはなかったからかもしれません。
彼らは他の地へ旅立っても必ず閉塞的な路地へ戻って来るのは、中上氏が故郷を懐かしみ幾たびも戻って来た姿が重なります。
作品というより作家の世界観を読みました。
『岬』から『地の果て~』まで読みたいけれど連続で読む精神力は無いので、東野圭吾あたりを挟んでまた是非読みたいと思うのでありました。
どんな町が舞台なのか調べてみると、和歌山の新宮という地はもう再開発されて当時の面影は無く明るい長閑な住宅地。
映画化で撮影が行われた須賀利地区も当時を偲ばせる街並みですが、やはり現在に於いて見ると明るい海辺の集落でした。
中上氏が一度『今夜は最高』という番組に出たのを記憶していますが、目の下の隈がずいぶんと濃くなっていました。お酒を飲みながらのトークの途中でニコニコしながらも畳の上にごろんと横になったのも身体が辛かったのでしょうが、それでスタジオが笑いに包まれました。大らかで豪快な印象が残っています。