2016年 06月 06日
萩尾望都著 『ポーの一族 春の夢』
舞台は1944年のウェールズ。テーマは、エドガーとアランが疎開してきた先で出会ったユダヤ系ドイツ人の苦悩。
34年にオービンがロンドンで遭遇して10年後。調査取材して回ってる頃。
旅行中のドン・マーシャルが列車内でふたりに遭遇する6年前。
この感想についてだいぶ悩んで整理する時間が必要でした。
正直なところここ2-3年、萩尾望都作品を読んでいませんでしたが、各作品の表紙絵を見る限り画風の変化は感じていませんでした。
本作に於いても女性の画を見る限りは違和感はありません。
しかし肝心の主役2人に著しい違和感がありました。
(高野文子氏の変化とはまた別の)
エドガーは、常に神経を研ぎ澄ませ警戒と注意を怠らない。人々が伝説を伝説として看過する時代になってさえも。セリフも極力少なく、アランに対してすら必要なことも黙っていたりする。
そうゆう人物画に必須なのは、読者にだけ心中を判読させる表情です。
傍観、注視、冷笑、哀れみ。萩尾氏の卓越した画力によって、その視線は常に雄弁でした。
しかし、今作にそれが感じられない画が多いのにまず驚きました。
画風の違いというよりも、表現全体に物足りなさを感じました。
計算しつくされた人物配置と動作、斬新なアングル、心象表現・・・卓越した画力がありました。
ファンタジーらしいデフォルメも効果的でしたのに。黒バックなんて、時代じゃないのかなぁ・・・今作では必要な場面も見当たらないけど
特に横顔が気になりました。
顎のラインを描く線が太くなりましたが、数コマを覗いて鋭角すぎるので顔が小さくなり、それが身体全体のバランスに影響している。
ブランカに年齢を尋ねられた後だけ、少年らしく頬がふっくらしたのも疑問です。
体格も、14歳の少年のそれではない。
特にブランカが窓の外に立っていたのに気付いて立ち上がった時に顕著。
確かに初期作品に比べて後期で既に体格は違います。しかしそれは表現力がさらに豊かになる過程と時代性を反映した画。少年らしい華奢な線は失われていなかった。
姿勢や態勢の堅さも随所に見られました。
貴族特有の優雅さ、気品、洗練、異形の者のただならぬ気配と透明感が全身に見られたのに。
登場コマと時計前のアランの姿勢もそう。アランについては、寝室と階下のようすを聞いている時以外の表情が随分とラフ。
ふたりが階段を上がる場面の態勢も、もうひとひねり出来たのでは。
ブランカがシューベルトを聞いて心を開放させ、思わず朗々と歌い上げる場面の、まるで舞台上のオペラ歌手のようなポーズは、唐突で芝居がかって見えました。寄り添うエドガーの姿も不自然。ミュージカルの1シーンみたい。
途中でマフラーの巻き方が変っている所も気になりました。同じページ上なのに。
馬車がオットマー邸へ着いた場面にはなぜかアランも居るんですね。
戻ってアランも誘ったということなのでしょうが、そつなく立ち回ることが出来るエドガーと違い、貴族のお坊ちゃんらしい気位の高さが抜けず、女の子以外、特に一般市民と関わりたがらないアランがなぜ来る気になったんでしょ?
技術的に熟練の域に入り久しい作家さんなのに。週刊や月刊誌連載ではないから時間は充分あるはずなのに、練り上げられた線に見えませんでした。
一分の隙もない繊細で的確な表現によって一人物を創りあげ、紙上を越えて生きていた。
あの蟲惑的な少年はいなかった、という印象です。
「ロンドンのゴミ捨て場」というのはなにかの比喩なんですかね?
大時計の登場は、のちの運命を考えると感慨深いものがあります。
そういえば、ウイッシュの館の暖炉の上にも時計がいくつも置いてありましたっけ。
ブランカたちの先祖に実は会っていたという流れになるのかな?
グレンスミスの子孫でドイツに渡ったエリザベスかその娘アンナと関係があるのかな?
戦時下のヨーロッパが舞台というのも面白い。既にロンドンで被災して屋敷も(どの屋敷なんでしょ?)失っている設定。激動の時代をどうすり抜けて来たのか興味がわきます。
ブランカやオットマー家の複雑な内情の回想場面の密度とテンポは真骨頂ともいえて、流石です。
彼女の抱える苦悩にも説得力がありました。
セリフも端的で詩的。そこから醸し出される世界観は変らぬものでした。
このキャラクターとこの時代でなければ描けないものが何であったのか。後編を見れば分かるかな?(次回発売が今冬ってのも随分と先ですね)
「わたしのことなぞ忘れたろうね」
「憶えてるよ 魔法使い」
夢の中でエドガーを悄然と見送る。読者をあの老いたオービンと同じ心境に陥らせるには最適の時期ではありますね。ほぼ同じ40年後だし。